アルジェリア師団はどこへ

マーニャ
第一次大戦前のドイツはシュリーフェンプランしかもっていなかった、それは鉄道ダイヤが一つしかないためだった、という点はわかりました。ですが小モルトケは、シュリーフェンプランで本当に勝てると考えていたのでしょうか。

別宮
小モルトケについては、チャーチルの評が残っています。

「ごく普通の、むしろ宮内官といった部類の人間で、平和な繁栄している時代に皇帝の寵を得て宮廷に出入りする類の男であった。この(参謀総長に任命されてしまった)不運な人間に、史上で最も偉大な名将ですら戦慄するに違いない残酷で無慈悲な運命が舞い降りてきたのだ。」というものですが、軍人というより、文民官僚に近い人物であったことは事実です。

ただ、かつて陸大教育で教えられたように、「気の弱い、決断力が鈍い、司令部を後方に置きすぎた」というのは誤解だと思います。

小モルトケは本当に宮廷にしか長くいなかった第8軍司令官プリトウィッツを革職していますし、その後任には武人肌のヒンデンブルグを据えています。そして決断力の面でいえばシュリーフェンプランの発動を決めたというのは重大決意に違いありません。

「決意」の内容はヨーロッパ戦争だったわけですが、「三週間で終わる普仏戦争・普墺戦争」の類に違いない、と信念をもちすぎた、いわば大モルトケの姿に脅えたのでしょう。

マーニャ
ヘンチュ話はともかく、「気が弱く、皇帝やとりまきの圧力に負けた」という評があります。とりわけ、東プロイセンに二個軍団を移駐させたことは取り返しのつかない失敗ではないでしょうか。

別宮
本人もあとになり認めていますから完全な失敗です。小モルトケはこの時食い違った見解を出しています。一つは「勝利しただと?どこでフランス軍を殲滅したというのか?どこで大量の大砲を鹵獲したというのか、またはどこで大量の捕虜を得たのか?」と副官に問い掛けています。

別には、第一軍クルックに出した命令で、「マルヌ河に向け英仏敗残軍を追跡すべし」というものです。

つまり、英仏敗残軍は英仏軍は敗北したことを意味しますが、殲滅したという実感は湧いていないんです。これは何を意味するかといえば、ドイツ軍が完全に索敵に失敗したことです。この時、ドイツ軍諜報網はイギリス軍のフランス領上陸地点を全く抑えていなかったばかりでなく、規模の予測も全くはずし、過少評価していたんです。そればかりでなく、パリ軍(第6軍モーヌーリ)のパリへの集中も見落としていたんです。

マーニャ
一般にはドイツ軍は諜報に優れるといわれます。実際のところフロンティアの戦いで、フランス軍への攻勢移転に成功しましたから、フランス軍は相当に弱体化した、すなわちパリ前面で旋回したとところで、反撃はできないだろうと、予測したんじゃないですか?

別宮
その通りです。

これはドイツ軍事学の弱い面も関係があります。ドイツ軍事学は平時における計画、すなわち事前計画にあります。つまり、緒戦で敵に大損害を与えれば、その後も「勝利の慣性」のようなものが得られ勝ち続けることができるというものです。

そして、シュリーフェンプランは詳細にフランス軍の配置が検討されたという前提でできています。例えば、開戦直後、ドイツ地中海艦隊のゲーベンとブレスラウはアルジェリアのボネなどを砲撃していますが、これはフランスの最強師団と謳われたアルジェリア師団の牽制のためです。

ところが、実際に戦争が進行して行くと、ドイツ大本営はアルジェリア師団の行方に興味を失ってしまうのです。すなわち、アルジェリア師団は、パリ軍の中核部隊でした。